2011年02月22日
悪魔の証明
「霊がいるという証拠はないが、いないという証拠もない。
したがって霊がいないとは言えないのではないだろうか?」
こういった詭弁をまま見かける。
「白いカラスがいる」ことを証明することは簡単である。
たった一匹、白いカラスを見つければよい。
だが「白いカラスなどいない」ことを証明することは困難である。
1億羽のカラスを調べて白いカラスが見つからなくても、他のどこかにいる可能性がある。
この様に何かが「ある」ことは証明しやすいが、
何かが「ない」ことを証明することは難しく、しばしば不可能である。
これを「悪魔の証明」と呼ぶ。
「ある」と「ない」にはこの様な非対称性が存在するため、
何かが「ある」という主張がなされる場合、その証明責任は主張する側にある。
この原則は裁判においても使われており、通常は証明責任を負うのは何か特別なことを主張する側である。
だがオカルトを主張する人々は今のところ、その証明に成功していない。
もっとも、証拠の不在は不在の証拠ではない。
証拠がないからといって、絶対にそれがないとは言い切れない。
というか、厳密に言えばどんな事象でも超天文学的確率でならありうる。
極端な話、インチキ霊能者が口からでまかせを言ったとしても、それが偶然正しい確率もゼロではないのだ。
これを以って「あるともないとも言えないのだからどちらとも言えない」というのを
落としどころにしようとする人をしばしば見かけるが、それは恥知らずな不可知論への逃避であり、思考停止である。
通常、充分に小さな可能性は無視できる。
あなたが明日、隕石に当たって死ぬ可能性はゼロではない。
だがそれを怖れて生きることは杞憂というものである。
同様に、私が「オカルトなどない」と言う時、それは「絶対にない」と主張しているのではない。
ごくごく小さな可能性があることには常に心を開いている。
だが近似としては「ない」と言って差しつかえないだろう。
オカルトはもしかしたら実在するのかもしれない。
しかし残念なことに肝心の主張者がそれを証明してくれないので、
それが証明される日まではとりあえず「ない」ということにしておくべきだろう。
「ある」というなら確たる証拠を提出してほしい。
話はそれからだ。
以上が私がオカルトを信じない理由の2本柱だ。
細部に立ち入れば他にも論拠は山ほどあるのだが、とりあえずこの2つを押さえるだけでオカルトの首ねっこは捉まえられる。
オカルトを信じない私はかつて豪胆だった。
心霊スポットと言われる場所に遊びに行ったり、人が亡くなったその夜にその人のベッドで寝てみたり、といったことも平気で出来た。
だが科学に対する理解が深まった今、「人はいもしない霊を見ることがある」ということを真摯に考えると「いつ自分も体験するかわからない」ことが非常に怖ろしい。
人は時に誤認するし夢を見るし幻覚も見る。
だがそれらのいずれも本人にとって主観的体験である点は変わらず、現実との境界はしばしばあいまいである。
我われが現実だと思っているものにしたって、実際には感覚器官から取り入れられ脳内で処理された情報に過ぎない。
脳はその情報に圧倒的なリアリティーを付与するバーチャルリアリティー発生装置なのだ。
その脳が見せる夢や幻覚は現実なみの臨場感に満ちている。
たとえそれが幻覚でも、真に迫った霊体験などはしたくない。
ましてや私は若干幻覚体質なのに夜勤のある仕事をしているのだ。
という訳で、今年から「夜勤中は廊下の照明を点けて巡回する」ことにした。
だってオバケ怖いんだもん。
したがって霊がいないとは言えないのではないだろうか?」
こういった詭弁をまま見かける。
「白いカラスがいる」ことを証明することは簡単である。
たった一匹、白いカラスを見つければよい。
だが「白いカラスなどいない」ことを証明することは困難である。
1億羽のカラスを調べて白いカラスが見つからなくても、他のどこかにいる可能性がある。
この様に何かが「ある」ことは証明しやすいが、
何かが「ない」ことを証明することは難しく、しばしば不可能である。
これを「悪魔の証明」と呼ぶ。
「ある」と「ない」にはこの様な非対称性が存在するため、
何かが「ある」という主張がなされる場合、その証明責任は主張する側にある。
この原則は裁判においても使われており、通常は証明責任を負うのは何か特別なことを主張する側である。
だがオカルトを主張する人々は今のところ、その証明に成功していない。
もっとも、証拠の不在は不在の証拠ではない。
証拠がないからといって、絶対にそれがないとは言い切れない。
というか、厳密に言えばどんな事象でも超天文学的確率でならありうる。
極端な話、インチキ霊能者が口からでまかせを言ったとしても、それが偶然正しい確率もゼロではないのだ。
これを以って「あるともないとも言えないのだからどちらとも言えない」というのを
落としどころにしようとする人をしばしば見かけるが、それは恥知らずな不可知論への逃避であり、思考停止である。
通常、充分に小さな可能性は無視できる。
あなたが明日、隕石に当たって死ぬ可能性はゼロではない。
だがそれを怖れて生きることは杞憂というものである。
同様に、私が「オカルトなどない」と言う時、それは「絶対にない」と主張しているのではない。
ごくごく小さな可能性があることには常に心を開いている。
だが近似としては「ない」と言って差しつかえないだろう。
オカルトはもしかしたら実在するのかもしれない。
しかし残念なことに肝心の主張者がそれを証明してくれないので、
それが証明される日まではとりあえず「ない」ということにしておくべきだろう。
「ある」というなら確たる証拠を提出してほしい。
話はそれからだ。
以上が私がオカルトを信じない理由の2本柱だ。
細部に立ち入れば他にも論拠は山ほどあるのだが、とりあえずこの2つを押さえるだけでオカルトの首ねっこは捉まえられる。
オカルトを信じない私はかつて豪胆だった。
心霊スポットと言われる場所に遊びに行ったり、人が亡くなったその夜にその人のベッドで寝てみたり、といったことも平気で出来た。
だが科学に対する理解が深まった今、「人はいもしない霊を見ることがある」ということを真摯に考えると「いつ自分も体験するかわからない」ことが非常に怖ろしい。
人は時に誤認するし夢を見るし幻覚も見る。
だがそれらのいずれも本人にとって主観的体験である点は変わらず、現実との境界はしばしばあいまいである。
我われが現実だと思っているものにしたって、実際には感覚器官から取り入れられ脳内で処理された情報に過ぎない。
脳はその情報に圧倒的なリアリティーを付与するバーチャルリアリティー発生装置なのだ。
その脳が見せる夢や幻覚は現実なみの臨場感に満ちている。
たとえそれが幻覚でも、真に迫った霊体験などはしたくない。
ましてや私は若干幻覚体質なのに夜勤のある仕事をしているのだ。
という訳で、今年から「夜勤中は廊下の照明を点けて巡回する」ことにした。
だってオバケ怖いんだもん。
Posted by morota at 14:13│Comments(2)